「聖徳太子も愛読された、香積仏品…とは」 2011.8月号



途中天年堂ブログにての部分です。↓

維摩は「さあ、香積如来から頂いた甘露味の香飯だ。如来の大悲の香りがしているぞ」と言った。これを聞いてある者は、「この家には、大勢いるので、これだけの飯で足りる物か」と思った。それに気付いた化菩薩が「四海の水が涸れることがあっても、この香飯が尽きることは無い。世界中の人がむしゃぶりついても食いきれず、余りを握り飯にしたら、巨大な山塊となるだろう。無尽の智慧と解脱を具えた如来の食べ物は、例えそれが残り物であっても、尽きることは無いのだ」その言葉どおり、鉢の香飯は、その場の者達が飽き るほど食べても、一向に減らず、(心身が安楽になり、全身から芳香を発するようになった。)

これでコラム完成です。

コラムの続き・・・

「悟りに、言葉は要らぬ。如来の大慈悲は、すでに芳香に体現されている。」と、「香積仏品」は、説く。

この話、かなり深いですね。この香飯は智慧と言っているのか、大慈悲と考えるのか、悟りのことか?深い話は、不解で不快。

しかし、香りは、物は言わずに、心を伝えるもの。

香りで表現豊かなものを作りたいものです。そして我々の香りで、何かを感じ悟りに近づけば・・・・