出身小学校の周年事業で、文章を依頼された。15年ほど前だったと思う。その時近未来の学校のやり方は、勉強はコンピューターの中で、自宅でもできるようになるが、その時の学校の役目は、道徳や集団生活の指導だろうと思う。それは明治維新後の教育を西郷隆盛は、儒教を中心とした道徳をしっかり教えることを説いていたことを書いた。

このごろのTVで、学校の教科書はぜんぶI―PAD見たいなコンピューターになり、この頃よく見かける、掌でピュピュっとすると教科書が出てくるようになるという。図書館もそれを置いているだけ。

これはもう実験校があるという。それどころか日本は随分と遅れているそうな。全校に広がるのは、7・8年先という。これまた遅れる。

しかし、そのようになったら、また道徳教育が遅れそうである。

昨日茶会に行った。お菓子を食べ終わったら、クロモジ懐紙に包んで次に渡すが、その懐紙の左を三角に折るけど、これは食事をした後、お箸の袋の左端を三角に折れば、食事終了という意味になるという意味だと知った。

洋食でナイフとフォークを重ねれば、食事終了の合図ということは小さい頃から知っていた。和式をこの歳まで知らなかった。「これ小学校で教えるべきですよね」とつい口にした。

この間、出身小学校の教養講座に出席した。妻の代わりだ。その日は引越しの次の日。片づけで妻は忙しいので、私が行くこととなる。いやー勉強になった。親はもちろん経営者が聞くことだった。先生は「寺子屋モデル」の代表者。教育者ではなかったのに、海外生活が長く、日本の体たらくに嘆き、昔の偉人のことを伝えることで人格形成をやられている。そのなかでなるほどと思ったのが、保育園生に儒教を口語訳でなく、漢文の読み方で覚えさせる。口語訳よりリズムがあり覚えやすいという。

昔の寺子屋はそうだったのだろう。昔TVで大名の子を育てるのに漢文をそのまま読ませ、解らなくとも、読んでいるうちに解るようになるといった話があった。

たぶんそれは本当だろう、むかしの職人さんは、何も教えず黙って見させることだけで教えてた。それが自分の知恵にもなったのではないか。

板前さんも、板長の味を食べ残しを食べ、こっそり盗んだという。自分で考えることで知恵が出て、オリジナルが生まれる。



道徳も、自分で覚え、師に尋ね修正する。家族3人が海に落ちおぼれる子供と妻とどちらを助けるか。その時のとっさの状況をどう生きるかは、常日頃道徳に触れなければ出来ないこと。

大震災後の政府の対応も然りである。

 教育は教養より道徳が先んじる。また体力も先んじる。「正義なき力は無なり、力なき正義も無なり」と吉川英冶が言っている。



 今、そろばんが小さなブームになってる。コンピューターだけに頼ったら何かが間違ってくるだろう。



 元に話を戻すと、I−PADが教科書になれば、ランドセルは要らなくなる。今宣伝中の、A4が入るランドセルなんか何にも要らない。あそうか、日本がコンピューター化に遅れているのは、ランドセル屋さんが、阻止しているからか?

 

 出身高校でトートバック(JUNやBAN)が禁止された。万引きするからという事だった。1つ上の学年で40人の集団万引きだった。1つ上の者が悪かったとは、間違いである。私のクラスで1年の2学期から登校してこない者がいた。そいつにはかばんは要らない。盗んだのは、TVとステレオ。これって万引きか??

 

 ああ今度からランドセルに何を入れるのか。答えは、そろばんと論語。





お亡くなりになられ、丈夫でなかったスティーブジョーブに感謝感謝!!