手塚治虫の漫画「ブッダ」を読んで、最初に印象に残ったのは、「アシタ仙人」が倒れていると、動物たちが仙人のために自分の出来ることをせっせとやっていたが、ウサギだけが何も出来ない。それで仕方なく、自分を火の中に投じ、自分の身を仙人に捧げたというシーンである。

 

今度の映画「ブッダ」にもそれは大きく取り上げられていたのでうれしかった。万生万物それぞれが、我を犠牲にして、この世は成り立っている。その犠牲の最も尊い事は、身を捧げ命を投げ出すこと・・という考えか。

 

韓国からの留学生が、駅のホームから落ちた人を助けて自分はなくなった。これは本当に偉い行為だし、自分には出来ない。

でも待てよ、神様から・・両親から頂いた大事な命、これを生かしてこそ、自分も神の心も生きるということも考えたのか。

ウサギはその時、死ぬことが最上の行為だったのか、神の御心が天で描いている理想郷をこの地に落とすことが、我々の仕事とすれば・・もっと方法があったのでは??

 

アシタ仙人の弟子ナラダッタ(架空の人物)は、仙人に頼まれ、尊い人を探しに行くが、その途中で出会った人を助けるために、動物を犠牲にしたそのことで、仙人から畜生道に落とされた。

 

畜生道に落とされた、ナラダッタは人間の姿はしているが、狼みたいになってしまった。

 

 この漫画の前半のストーリーテラーの役目をするタッタという子供は、なぜか動物に乗り移ることができる。そしてその動物を意のままに動かすということである。

 

手塚治虫は漫画家である。漫画として読み応えがあればそれでよい。宗教家ではない。宗教として正しいかどうかよりは、伝えたいことを伝えればよい。「火の鳥」でもそうだが、漫画の中にも、小説家でも気付かないリアリティーを描く。

 さっきまで、平和主義者で、庶民のために命がけでやっていた善い人が、天下を取ったことで顔がギラリと変わるということを見抜いてか、人間の底になる、イヤラシイどろどろとした欲を描くのが、手塚である。

 

 紹介した3つの事が、宗教家としての見解から言えば間違いである・・・と映画を観て感じた。

 

では具体的に・・・ということは、来週に続くとしよう。

「ブッダ」が生まれることを予言した(仏陀とは、悟った人のこと)アシタ仙人に

感謝感謝!!!