忌野清志朗に続き、私の憧れがまた一人亡くなりました。



加藤和彦が軽井沢のホテルで亡くなったと聞き万平ホテルだろうなと思ったのは、私だけではないでしょう。



このホテルは、皇族の方々は勿論のこと、ジョン・レノン家族が頻繁に泊っていたことでも有名でしたので。

 

加藤和彦さんは、たぶん日本のフォーク・ロック・ポップスのNO1の人で、海外での評価の方が高いと言います。バックバンドにYMO・ムーンライダース・矢野顕子などを従えていますし、つのだひろ・高中正義・高橋ユキヒロ・後藤次利・小原礼(ロンドンで活躍)等のお師匠さんで、松山猛・北山修(作詞家・精神科教授)等の友人で、安井かずみの元夫で、お弟子さんに吉田拓郎・泉谷しげる・ユーミン等、本当にそうそうたるメンバーに影響を与えた人ですね。

 

学生時代に作った、「帰ってきたヨッパライ」はビートルズがやっていたテープの回転を変えたり、最後の御経にナンマイダ―と唱えながら「イッツビナ・ア・ハード・デイズ・ナイト」とビートルズナンバーを御経風に歌ったりと、斬新なことに取り組んでいました。

 

また大滝詠一よりずいぶん前に、さらりと言葉で遊んだ冗談ソングがあったり、放送禁止になった「イムジン河」の進行を逆にして「悲しくてやりきれない」をヒットさせたり、79年頃誰より先がけて、レゲェの進歩したスカビートそれから進化したダブを取り入れたり限りなく、新しいものを取り入れながら、おしゃれで大人の雰囲気というのは、彼しかできない芸当でしょう。「タイムマシンにお願い」のアーの入り方・タイムマシンのタイで終わり方。また次の「黒船」につながる間の良さ。

 

新曲を発表しないと宣言後、2・3年して新ミカバンドを聞きましたが、アレっと思ったのは私だけでしょうか。

 

唯一ライバルと思える細野晴臣氏の出したテンパン(忌野清志朗も歌手として登場・その歌詞の中で自分はもう帰ってこないと宣言していた)の新しさがはるかに良かったので、加藤さんに少しがっかりしました。

 

あの頃から、斬新さがなくなってきたのではないかと思います。ですから芸術家加藤和彦初めての挫折が、この数年だったのかなと思います。

 

実際、細野(実は私が一番好きな日本人アーチスト)さんははっぴいえんど時代に、大滝さんが良い曲作るので、挫折していたと言いますし。その大滝さんも数年前からもう自分がすることはなくなったと言って、マスコミに出てきません(先程のテンパンで声だけ登場)。

 

芸術家から才能の目標を取ったら、生きる目標もなくなるのでしょうか。

 

私は一経営者として考えると、最終目標を世界を仏国土・ユートピア・理想郷にしたいということです。それは私だけではできないし、何百年も何千年もかかるでしょう。

 

その前に自分自身がそれなりの人物になること。これだけでも一生かかってもできないかもしれません。しかしもっともっとと頑張り、100歳になっても元気で頑張ることを生きる目標にし、お香メーカーの親父としてやれることを追求することを心に支えにしていけば、自分で死ぬようなことはない、と思います。



死ななくても済むような立派な癒しのお香を、世の中に出せるように頑張りたいと思います。



パパ加藤和彦よ永遠に。ご冥福をお祈りいたします。青春の一ページに感謝感謝。